2019年5月11日土曜日

映画「おーい、大石」

映画「おーい、大石」を見た

この作品は、ぴあで2016年に入選した作品だ
見ることになった経緯としては、ゲーテインスティトュートでアンマールさんというシリア出身の監督が、日本で映画作りをしていて、そのプレゼンを見に行った際に、
この作品を制作した菊沢将憲監督にたまたまお会いし、お話をする機会を持ったためだ

さて、映画を拝見。
実は、この作品内に意味深に登場するホースをブンブンを頭の上で回し続ける少女は、
以前ベルリン映画祭の時に、取材させていただいた監督の一人、清原監督だった。
この清原さん演じるホースブンブン少女は、全くの意味不明であるが、空を飛べるような気にさせてくれる、つまり自由の象徴を意味するのか?と想像

それを思ったのは、まずこの映画の中心的な役割を果たすことになる、安倍政権の憲法9条の変更に関してのデモの声が、物語最初に響き、この現在のある分岐点としての日本を感じさせる一コマが挿入されていたからである。つまり、監督は、現在の日本の状況に閉塞感を感じている人の一人?

それと並行して、登場人物の大石と主人公が母親に対しての思い(母親が死んでしまった)を会話にしていくことで、彼らの個人史が語られていく。埋葬としての種を植える暗喩的なシーンも、監督の小技が聞いた演出だろう。

そして、大石と主人公との関係性=対話・亡くなって母への思い・吐き出すことができないそして解決できない思い は様々なメタファーで、語られていく。それがすごく詩的なのだ。

そのメタファーが、ブッラクジョークでなく、爽やかであることで、全くこの映画を見て鬱々とした気持ちになることはない。それは、監督の菊沢自信が実際に母親を亡くした経験があり、辛い過去を持っているからこそ、辛気臭さがない方向性になったのかもしれない?と勝手に想像。まぁ楽しく生きようよ!というある種の楽観性が、少しでもずれればアホらしくなってしまいそうな演出を甘酸っぱい、友人との青春の場面としての一瞬を作っているのかもしれなかった?

などと推測し、最後の手ぶれの言葉のない・言葉のある映像表現は、どこか私に郷愁を誘い、心地よくさせてくれたのだった。

いい映画だった





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