2017年12月13日水曜日

Westernの監督

今日は、Westernの監督、Valeska Grisebachがきました。そして、映画を見て、話を聞いた。
この映画の出発ポイントは、ドイツ人であるということ、つまり自分の国際的なナショナリティーの存在を、ヨーロッパは多人種共存主義だからとあまり国籍に固執した態度をとらないということではなく、あえて自分はドイツ人である、と言ってみる。という所から出発している。それが面白い。
そして、そのドイツ人であることが、他の東ヨーロッパに行った時に、ある優勢的な立場になる。それは、ドイツが他の国よりも強くアメリカやイギリスのように裕福な国であることを他の国々の人々は知っているからだ。そういったことから、シーンのあちこちで、ドイツの国旗が現れたりもする。そして、そこから連想するのはネオナチ的な自国崇拝主義だ。その中でも、鼻高々なドイツ人の仲間同士の争いが見られる。ブルガリアに工事業者として来ているドイツ人労働者というその地位・存在は、ある小さな村での外国人という存在である。その彼らの一部が、主人公であるMeinhardと仲良くなって行く部分もあるが、結果村人の他の連中からはあまり受け入れられない。
僕が、面白いと思ったのは、この主人公が、そのネオナチ的な存在でもある仲間・同僚とも最終的に打ち解けることができずに、睨み合った状態が続いていたこと。そして、村の人々に主人公がシンパシーを感じていながらも、そこにも外人である以上入っていけない状態がずっと続いていたこと。それを考えてみると、この主人公Meinhardは、ちょっと込み入った性格の持ち主なのかもしれない。彼は、村人との会話の中で、イラクで人を殺したか?という質問を受けてお茶を濁したり、自分の兄弟が死んでしまったことが彼にとっての影を残すバックグラウンドになっているかもしれなかった。
話が少し途切れるが、馬の存在が映画の中にある。馬は途中その敵対している同僚のミス・事故で、大怪我をして、死んでしまう(銃で殺さざる負えない状況になる)。その怪我をする原因を誰が作ったのか、あとで知ることになるのだが、それを知ったMeinhardは、その同僚の前で、食いさがる。だが、その同僚は、「俺らはここに働きにきたんだ。」と言って去って行く。
つまり、主人公Meinhardは、馬に出会ってから、どんどん馬に思い入れをするようになっていったわけなんだけれど、その馬が突然死んだことによって、彼が、その馬を愛することになっていったというその状態を彼自身に突きつけられるのだ。
私(彼)は一体何をして、誰なんだ?ということだ。
つまり、馬を愛するようになったその時間をこの村で過ごし、村に住む人々をまた愛するようになっていたのだ。だが、彼は外人であり、しかもそれは虐げられるような存在ではないポジションにいる。優勢的なポジションを保ちながら、そこで仕事をしているドイツ人であるということ。
僕はこの映画に、現在のドイツ人のアイデンティティーや葛藤を見て、それが正しいのか何なのか別として、やはり西ヨーロッパ生まれの監督が西ヨーロッパで育って作り上げた映画であるという視点を持つことになった。



0 件のコメント:

コメントを投稿