2025年11月19日水曜日

 アーティゾン美術館二回目訪問、

山城さんの過去作をランダムで見れたのはよかった

新作も素敵で素晴らしすぎた

志賀理江子作品は、学生時代から追っかけ続けいているが、

今回はさすがに渦のなかに入っていく(展示の中に歩を進めていく)のが怖くて、恐ろしく、

おそらく全文読んでいる人少ないと思うけど、読み切り、小説の世界だった

そこも被っている趣味の箇所でやっぱりツボにはいるな~、

まさか、途中の展望通路の箇所にあんなに原発、反核、反戦本を並べているとは、いっていない人はきづかなかっただろうに…

花岡事件


現美の展覧会は、インドのアーティストの作品が印象に残った

シルバグプタ

Camp

シュビギラオ






2025年11月18日火曜日

ポルトガルの別れ』が忘れられない

残る映画だったし、あの静けさが大好きすぎる

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/movie-5259.html

2025年11月14日金曜日

 ペドロ・コスタ展、

歌舞伎町でやっていた、ゴダール展よりもよかった

教会にいるようなミサに参加しているような感覚だった

カタログに、映画と美術の間の記述があったので、購入 

まさか、冒頭にアドルノの美学理論からスタートというとんでもない偶然が起きている





そのあと、百瀬文さんの作品、アルファエムで視聴。
僕が出会った頃より、歳月が経過し、熟した表現と化していた、
語りがたい形而上学の概念の語りをなぞらせるながら、視覚イメージや造形的な断面をイメージさせることで、表現を言葉から図像へと託していることに、アーティストの仕事であることが見てとれた
久しぶりにこういったザ現代美術の映像作品を視聴。
しかしながら、ヨーロッパでさんざん見た、西洋的な作品の構造と似た形態は否めなかった、
日本語でやったらどうなったのかを見たかった
ですが、こういう作品を作っているひとがいるかというとそんなことはないので、とてもユニークでした、









2025年11月8日土曜日

合格

本審査終了しまして、

「合格」

を頂きました、安心しました

緊張感のある時間が続いていたので、ほんの少しホッとしています。本当によかった

あとは、やり残した箇所の追記と修正、

今後の展望を書く必要がありそうです、

そこはかなりの悩み、です…

どうしようかな、とおもっている

2025年11月4日火曜日

博士学位論文本審査会

博士後期課程映像メディア学専攻 公開審査あります 誰が来ても良いそうです。当日、DMなど対応できないのですが、もし時間合う方いましたらどうぞお越しください

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博士学位論文本審査会
[発表者]
博士課程 鈴木光
[論文題目]
美術と映像「エッセイフィルム論」
【日時】
11月7日(金) 15:00-18:00
15:00-15:20 作品に関するプレゼンテーション(20分)
15:20-16:20 論文に関するプレゼンテーション(60分)
16:20-17:20 作品および論文に関する質疑応答(70分)
17:30-18:00 審査(30分)
【会場】
東京藝術大学大学院映像研究科元町中華街校舎3F
【審査員】
・主査
桂英史(大学院映像研究科)
・副査
高山明(大学院映像研究科)
山城知佳子(大学院美術研究科)
田坂博子(東京都写真美術館)
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2018年7月だったと思う ベルリン芸術大学の修士審査が思い出される あの時は呼びたい人を呼んでも良い制度だったが、私は誰も呼ばなかった しかし、同い年で同タイミングで卒業予定だったオランダ人とドイツ人の同級生二人が来てくれた、主査はトーマス・アルスラン、副査ニナ・フィッシャーとアナ・アンダースだった、5名で卒業作品を見る会だった

2025年10月30日木曜日

アメリカのCCJ(Collaborative Cataloging Japan)でオンライン会員のみではありますが過去作が11月見れるようになるそうです、よろしくお願いします

Yōji Kuri 作品とTakashi Ito's作品の間に位置され、光栄です

https://www.collabjapan.org/


2025年10月16日木曜日

大木裕之さん

大木裕之さんが、亡くなった。
一部のSNSで出ているが、それは置いておいて

美術と映像を見ながら、走ろうとする作家にとって、大きすぎる出来事だと思う。
話した回数は多くはないけれど、いつも展覧会の告知や上映の情報は見守っていたし、行ける時は参加した。
映像表現を行う作家で、美術や映画を共に横断しながら、その斜めのラインをつき進む作家は、多くないと感じる。いつも美術なら美術に、映画なら映画にそれてしまうからだ。
その意味で、大木さんは、徹底してその境界を走る鬼才そして天才であり、その斜めを走り続けたと思う、
シナリオを前提とした方法ではない、「配置」によって布置される構成は、まさに、芸術家として誰も真似できない大木さんの独自のやり方だった。
僕は、そばで何かをやる、ということをやってきたわけではないが、自分の目標とする多くはない作家の一人であったと思う。
このような時代の中で、大木さんの70代の表現や晩年の表現を見てみたかった
僕にとって、今も、一番新しい表現をする作家が、大木裕之さんである と思う
合掌 です。お通夜には行きたいと思っているのですが、行けるのでしょうか・・・
博論にも大木さんのことを書いているし、今、博論提出直前で、自分の制作がある意味で揺れているところで、この大木さんの死は、何かを決意するトリガーとして機能する