園子温の「恋の罪」を見た後、この映画をなぜ作ったのか、と気になった。愛し方の形を作ることが彼の目的なのか。整理する必要がある。
何か、「映画/映像」とそれがすごく結びついているような気がしてならない。
ちなみに「恋の罪」のポスターは、ベルリンの町中に貼ってあったのだ、だからずっと見たいと思っていた。
小説家の夫を持つ妻/いづみは、生活の中に厳しい規則を持つ旦那の言う通りに生きている。その生活を繰り返していくうちに、そのつまらない生活を生き生きとしたものにするために、何かしようと思い立つ。スーパーの試食販売員として働き始めるが、そこでAVスカウトの女に出会い, 騙されて、AV出演してしまう。自分が何をやっているのかわからないまま、次々と仕事をこなしていくいづみ、そんな中、渋谷のホテル街である女性に出会う。この女性/美津子は、昼間は、大学の助教授として働くインテリだ。彼女は、何かに物足りなさを感じていて、このホテル街で一人立ちんぼとして自分の体を売っている。「値段はいくらでもいい」と言って、彼女は、出会った男を誘うのだ。美津子はこの街形容する「二人の男女が行き場もなくさまよい歩き、まるで城を目指して歩きまわるものたちのようだ」と。美津子はそのホテル街のど真ん中で静かに眠る廃墟を“城”と呼んで、そこへ男を連れ込み、ことに及ぶのだ。
映画は、フラッシュバックして、この“城“で11日前に起きた事件を思い出させる。人形と切断された死体の一部が組み合わされて横たわっている。ここでは一体何があったのか。それを観察するもう一人の人物/和子。彼女は、警部でこの事件を調べている女であるが、彼女も色狂いで旦那の後輩と体の関係を持っている。
ここまでで気づくのは、この3人の主人公の女たちは、性的欲求を抑えることができない人々で、それが言葉でも語れず形容できない“何か”なのである。性欲というものは、厄介で、形もないしお話もすることができない、ただ“その“行為をすることでしか、解決できないのだ。つまり、それが園子温がこの映画でやりたいことだったのか。性的欲求が映画に絡みついている。突然、ギャスパー・ノエの映画「アレックス」を思い出した。
いづみは、美津子と出会い彼女と時間を共にするうちに、どんどん売春の世界へと足を踏み込んでいく。美津子の父親は大学教授で、その母は、下劣な女だ。そのため彼女は、母親公認の元に売春を繰り返しているのかもしれない。
いづみが、美津子の紹介でデリヘルの仕事を始めたある夜、美津子が男が待つホテルへ出かけた。そこへいづみも行くことになってしまう。そこで、美津子といづみの夫/由紀夫は、いづみが結婚する前から性行為に及んでいたと知らされる。由紀夫は、妻である/いづみと性的関係を持ったことがないにもかかわらず。その経緯から、いづみは美津子を恨むことになった。最終的に、美津子のおぞましい下劣な母の仕業で、いづみは美津子を殺すことになる。
3人の女の性への欲望のストーリーが交錯する。
ところで、園子温は、やっぱり、詩人なんだなぁと改めて。美津子のある詩を読み上げるシーンは、清く凛々しく美しくカッコいい。そして、この詩の文章は、これらの下劣な出来事が全く成し遂げられて、いづみが、落ちるところまで落ちた時に、もう一度使用された時、そこではっきりと新たな意味合いを持ち始める。園子温の映画の魅力は、この詩の力とみなぎる女優のまっすぐで邪悪な演技にあるような気がする。
なんだか全然言い足りないような気がするが、誰かと話したい。
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