ふとすべてがかたずいたような気がした。
それをまとめる必要があるので今書こうと思う。
抽象絵画や彫刻を見て泣いたり笑ったりしない。
映画館では泣いたり笑ったりする。
なぜなのか?
それは、映画が感情表現に優れたメディアであるからだと思う。そして、人間の感情を巻き込んでいくのは、
言語があるからだ。
最初は、言葉が不自由であったから、言葉で伝えきれないことを映像でやろうと思った。
それが彫刻や絵であったり、それにつながりのあるビデオアートみたいなものだった。
だけど、最近言葉でできることがあるんじゃないかと思うようになった。
それは、シュアーのインタビューマイクをイアマスで見たときだった。
言葉+画。
言葉を拒絶して、映像作品を作っていたのに、言葉がさけられないものになったと気づいた。
感情表現をするときに、言葉がすごく伝わりやすいメディアであることにも気づいた。
言葉をどう自分が引き受けていくのか?
最初制作した作品はワンカットだったんだけど、モンタージュをし始めたとき、言葉というものにぶちあたった。
それを紡ぎ合わせることで、一つの言いたいことを紡いでいく。
映像や映画を作ることとと向き合うことっていうのは、言葉とも画とも向き合うことになっていった。
人が抱き合うのを見て感動したら、それをコンポジションした映像を作れば伝えれる。
しかし、完全にコントロールして意味が伝わったらいいのか?単に伝えるだけだったら、言葉にしたっていい。
一方では、きれいな森のワンカットの”映像自体”が持っている感動っていうのもある。
つまり、言葉と画をコンポジションした”映像”自体が持つ不思議な魅力が自分や人を魅了するんだと思う。
まとめると、文学と美術の中間に位置するのが映像なんじゃないか。この言葉が自分に全くしっくりくる。
それだ。
(諏訪敦彦監督の言葉を借りる)