2010年5月31日月曜日

9本の映画を見る。


アップリンクで

『音の城♪音の海 − SOUND to MUSIC −』



ポレポレ東中野で
「LINE 」と 「アヒルの子」を見る

オールナイト5本

『ニコトコ島』

(2008/47分 監督:大力拓哉 三浦崇志)
イメージフォーラム・フェスティバル2009大賞作品。広大な無人島をあてもなく彷徨う3人の若者。脱力したトリオ漫才の様相で繰り広げる禅問答の応酬と、圧倒的な画面構成のギャップから来るめまいは、かつてない映画体験になるはず。大力、三浦両監督は『LINE』小谷忠典監督の旧友でもある。

『My beautiful EGO』
(2000/40分 監督:清水佐絵)
『アヒルの子』同様、監督自らが自身をさらけ出していくが、露悪的ではない軽さにむしろすがすがしさを覚える快作。
PFF2000審査員特別賞受賞作品。監督は「はてなtaxi」ボーカル、「堀川中立売」(監督:柴田剛)で一人二役の主要キャストとして活躍中の清水佐絵。

『チーズとうじ虫』
(2005/98分 監督:加藤治代)
ガンに冒された母との何気ない日常を詩的なトーンで紡がれつつ、ラストでは生命の輪廻にまで飛翔してしまう驚愕のドキュメンタリー。「家族」を題材にしながら豊穣な世界を描き出し、山形国際ドキュメンタリー映画祭を始め各国の映画祭で絶賛された。

『家族ケチャップ』
(1992/37分 監督:工藤義洋)
家族をむき出しにしていく壮絶な様を描く、一部で伝説化しているハードコア・ドキュメンタリー。現実と虚構が混在していく過程で、ただ血が繋がっているというだけの「家族」という共同体そのものを描ききる。そのせめぎあいが頂点に達するラストは必見。PFF1992審査員特別賞受賞作品。

『極私的エロス 恋歌1974』
(1974/98分 監督:原一男)
いわずと知れた『アヒルの子』制作総指揮・原一男監督渾身の第2作。「個」に徹底的に肉薄する訴求力を持ち、今なお観る者に衝撃を与える本作は『アヒルの子』小野さやか監督がドキュメンタリー制作を志した原点でもある。





家に帰って
God Speed You! Black Emperor
(暴走族の映画。1974年の新宿のブラックエンペラーの軌跡。白黒)
を見る。

暴走族の母親がなんみょんほーれんげーきょーを言いながら、隣で息子(暴走族)が横浜銀蝿のレコードを聞いているシーンが残っている。。


「チーズとウジ虫」は久々に号泣。。

家族ケチャップは、白黒であるせいか、すごみがあった。。
監督本人が母親におしっこをかけるシーンから始まる。
そして、素っ裸で東京の町の中で踊るカット。
もう何が何だかわからん。。
最後には、リングが登場して、母親と父親と監督がその上で立っている。
そして、鎌倉の大仏の上に素っ裸でのぼるカットで終わり。
だいぶ内容をはぶいたけれど。


なんなんだぁ〜。。


そして原一男の
「極私的エロス」
昔見たときは、寝てしまってちゃんと見れてよかった。。
最後、自分の元妻が黒人の子供を生むシーン(第一子は隣でずっと生まれる部分あそこを見ている)と
元妻の友達と監督との間にできた子供を出産するシーンが2つ撮られていた。

最後の1カットは、元妻がアフロでストリップか何かで激しく踊るカットで終わる。


もう何が何だか、、
オールナイトを見たあと、飲みにいった。はきそうになりながら、バスに乗り込んだ。。


おもしろいは面白いけど、いいものってなんだろうと考える・・・・










2010年5月27日木曜日

エリ・エリ・レマ・サバクタニ
青山真治監督の作品
バスジャックの事故が10年前に起こり家族が崩壊した、という文章から始まる。
浅野忠信は、中国の人身売買の輸送船で働いているシーン。ここの口琴の音が流れてくるのは不思議で面白い。
輸送船に乗っていた子供をかわいそうに思ったのか、その子供を保護する。
子供を保護するために、人身売買の仕事をやめタクシー運転手として働き始める。
そこでちょうど乗ってきたホステスと出会い、いい仲になる。
車でお客を送ったとき、10年前に浅野忠信を捨てた母親に出会う。
場面が変わる問題があって行くところがない人々を雇っている会社のシーン。
そこの社長と母親は夫婦の関係にある。
そこに浅野忠信が現れる。
みたいな感じで始まる。。
最後が母性愛みたいな感じで終わるのがちょっと気になった。。
やっぱりユリイカはいい。。

大いなる幻影をみる。
2回目。

1回目をちゃんと見れなくて、ちゃんと見てみようかと思って借りました。。
確かに幻影だった。
武田信治や唯野未歩子が消えたりするシーンが多数ある。。
けっこうよかった。。




大いなる幻影って昔の映画であったよなぁ。。
ずっと気になってたんだけど、この映画と関係あるんだよね、多分。。
ないのかな??


解説を読んだ。

「大いなる幻影」では、2005年を生きるハルとミチというふたりの主人公の日常が、淡々と綴られていく。そこには一見するとさしたる変化がないようにも見える。 しかしながら、その寡黙なドラマのなかでは、彼らそれぞれの個人としての在り方、世界との関係が独自の視点で掘り下げられ、確実に変化しているものがある。

 たとえば、この映画から浮かび上がってくるカウンターのイメージは、その変化の目安になることだろう。 この映画にハルが最初に登場するとき、彼は、行きつけのカフェのカウンターに背を向けて立っている。一方、ミチが最初に登場するとき、 彼女は職場である郵便局のカウンターのなかで、シートで目隠しされた窓口に向かっている。それはもちろん、どちらも特別な光景ではない。 ハルはただ時間をつぶしているだけだし、ミチはいつものように仕事をしているにすぎない。しかし、ドラマが進んでいくに従って、 カウンターというものとそれに対する彼らの位置は特別な意味を持つようになり、終盤の展開を非常に印象深いものにするのだ。

 ハルとミチは同じ世界に存在しているが、そのなかで彼らに見えているもの、彼らが感じていることには大きな隔たりがある。 この映画ではそうした彼らの主観がごく自然なかたちでドラマに盛り込まれている。

 ミチは小包をくすねて、その中身をコレクションし、自分の世界を異国のもので埋め尽くそうとしている。 彼女にとって、目隠しで仕切られた郵便局のカウンターの向こう側はすでに異国と化している。さらに、 彼女が出会うアパートの隣人や近所で頻繁に騒ぎを起こすカップルがみな外国人であるように、彼女は常に異国を見ている。 しかし、その外国人たちに対する彼女のあまりにも遠慮がちな態度が示すように、そこにはある種の距離がある。 その距離は、彼女とカウンターの向こうの異国との隔たりに通じている。


◆スタッフ◆

監督/脚本
黒沢清
製作堀越謙三・松田広子
撮影/照明柴主高秀
編集大永昌弘
音楽相馬大

◆キャスト◆

ハル
武田真治
ミチ唯野未歩子
佐竹安井豊
村井松本正道
健二稲見一茂
秋子億田明子



 そんな彼女は、自分の在り方というものにおぼろげな疑問を感じるようになる。彼女が、外国人女性の部屋でユーラシア大陸の地図を見るとき、そこには日本は存在していない。 それはおそらくは、地図に日本が描かれていないのではなく、彼女にとって日本が存在しないのだ。そのことによって彼女は次第に追いつめられていく。 日本が存在しなければ、外部としての異国も無く、外部によって支えられてきた自分の存在すらも危うくなる。もちろん彼女はここではないどこかに向かうこともできない。 それはいま自分がいる場所があって初めて成立することだからだ。彼女は実際に旅立とうとしても、空港のカウンターで受け付けてはもらえない。 そこで自分がいる場所を見つけだすことを余儀なくされる。

 一方ハルは、ミチとは対照的に、日常のなかで個人であることをもてあまし、それが重荷になっているように見える。 三人組の窃盗犯が金庫をこじ開けているのを目撃したとき、彼はわざわざ彼らとすれ違うタイミングをずらし、素知らぬふりをする。ところが彼らは追いかけてきて、「消えろ」という。 そんなときハルは、そうした煩わしさから逃れられるのであれば、本当に消えて、背景に溶け込んでしまうのも悪くないのではないかと密かに思う。

 彼には、カフェバーのなかで、見知らぬカップルが険悪なムードになったり、彼の連れの佐竹や健二が絵葉書を売る外国人を追い払おうとすることまでが、 自分に跳ね返り、消えることへと駆り立てられる。そんな彼の気持ちは、ミチとの関係のなかにも現れている。それはたとえば、 ふたりが公園でボールや風船を使って遊んでいる場面だ。ミチは、外国人女性からもらったアオザイを身につけ、どことなく浮き立っているように見えるが、 ハルは、自分が蹴ったり弾いたりするボールの感触に、いやでも自分の存在を感じ、そのことに苛立ちをつのらせていくのだ。

 このふたりの立場から浮かび上がってくる願望、閉塞感、喪失感などのもろもろの感情は、現代の日本を生きる人間が多かれ少なかれ共有しているものだろう。 この映画では、そんな彼らの立場が見えてくることによって、ドラマに恋愛映画としての魅力が際立ちはじめる。恋愛映画のひとつの本質は、 すぐそばにいるように見えながら、誰からもどこからも遠く隔てられている個人と個人の関係を描きだしていくことであり、 このドラマはまさにそういう方向へと突き進んでいくからだ。

 ハルとミチは、お互いに相手が知らないうちに花粉症の新薬のモニターになっている。彼らが薬を飲むのは同じことだが、その効果に期待しているもの、 つまり、それぞれの胸のうちに秘めている感情はまったく違う。

 ハルは消えるためにそれを飲む。花粉が激しく舞う世界のなかで、マスクも付けずにそこにいる彼は、もはや周囲から個人とは見られず、 消えた存在であり、そのことに対してある種の解放感を感じている。しかしもちろん彼が完全に消えてしまうわけではない。結局彼は、 佐竹の誘いで三人組の窃盗犯の仲間になるしかなくなる。彼らはかつてハルに「消えろ」と言ったが、彼らの前から消えるということは、 皮肉にもその集団に帰属することだったということになる。

 一方ミチが薬を飲むのは、地図から消えてしまった自分の居場所を見つけだし、外部と自分の存在を取り戻すためだ。 そんな彼女の運命もまたハルと同じく集団と個人の関係を通して語られる。自己の生(性)の可能性を限定した彼女には、 実際に彼女が存在する場所が見えてくるが、それとともに彼女の前に現れるのは、サッカーのサポーターやファシストの集団だ。 彼らは、いわば外部に対して彼女の願望とは逆方向の力で結束する集団であり、それゆえに彼女は翻弄され、絶望を味わう。 ハルはそんな彼女を救おうとするが、彼らは新薬のケースと同じ黄色が象徴的な扉で隔てられ、別れ別れになる。

 この黄色い扉を含めて、これまで彼らを隔ててきた境界は、この映画の終盤のドラマで、郵便局のカウンターに集約される。 そして、越えることのできない境界をめぐって変化してきた彼らの関係を踏まえてみるなら、そのドラマは非常に興味深く思えることだろう。

 覆面の二人組が郵便局を襲撃する。騒ぎに気づいたミチは、窓口の目隠しを開き、そこに顔を入れようとした覆面男を力まかせにカウンターのなかに引きずり込み、覆面を剥がす。 それぞれの姿勢で個人であろうとしてきたために遠く隔てられたハルとミチは、ここでその境界を越えることになる。 ミチは、彼女にとっての異国からハルが現れることで外部の呪縛を解かれ、同時に、 消えているハルをそのまま受け入れてしまうことによって、彼の呪縛もまた意味を失う。

 そして、彼らが外部も内部もなくただそこにあることに、時代を越える愛のかたちが見えてくるのである。



とこんなふうに書いてある。。

内部と外部確かに、感じることはできたような気がするけれど・・・。

最後の終わり方はあれでよかったのかは気になる。。

解決は結局していないという形を考えていいんだよな・・・。


だって、ミチ(唯野未歩子)の方は、少し晴れやかな顔をしていたような気がするけど、

ハル(武田真治)の方はあんまりな感じだった。。

しかも、事件が起きてから終わるまでの数カットは本当に時間が短いし、ここらへんをもうちょっとじっくり見てみたかったような気がする。
















2010年5月25日火曜日

エリ・エリ・レマ・サバクタニ
アンニョン由美香
童貞をプロデュース
ライブテープ
アリスインワンダーランド
ゲルマニウムの夜
ホノカアボーイ(真田 敦)
惑星ソラリス
私を女優にして下さい
河の底からこんにちわ
チルソクの夏(佐々部 清)
リンダリンダリンダ
闇の子供達(阪本順治
赤い文化住宅の初子(タナダユキ)


あと何見たっけ?
最近見た映画をとりあえず記録。。

エヴェおもろかった。。。

そういえば、ぴあで斉藤さん入賞してるのを発見。。
そのときのグランプリはたなだゆき
2000年「もる」←これ面白そう。。






2010年5月7日金曜日

松江哲明監督

トークすごく楽しかった。
めちゃくちゃ身にしみるし、身になるトークでした。
すごくやる気がわいた。。

今日映画美学校に初めて行った。
ペドロコスタのトークだったのかぁ。。
いや、明日のような気がする・・。


吉祥寺の町をプラプラしていて、そろそろ飽きてきた。。
ちゃんと作品に向かわなきゃ。。
でもちょっと今山形行きたくなってる。。


100年後き〜みと待ち合わせ・・・♫

そんなことってあったすばらしい・・