新しい朝が来ている
新しい朝が来ている
大木さんの映画は本当にすばらしい
最終日、何があったかメモしておきます。
忘れてしまうとやばい。
僕は、「夏至の子」を見たら帰ろうか・・・迷う・・・
「大大木裕之展フィナーレ」上映タイムテーブル
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14時〜14時半
「死角 visioncontrol」(2009 10min)
「コイ」(2010 16min)
15時〜15時半
「フーイズニシムラ」(1999 17min)
16時〜16時半
「sss 山形mix」(1999-2013 10min)
「松前君の旋律II 100321mix」(2004 20min)
17時〜17時半
「001001」(2001 27min)
18時〜18時半
「ミつめつつユみ 藁工mix」(2011-2021 7min)
「松前君のまんじまんじゅのための映画」(2014 20min)
19時〜19時半
「ニホンノカテイ 2019ラッシュ」(30min)
20時〜22時
「夏至の子」(1990 ??min)
「色風」(1991 10min)
「Nakasuka_kara」(2016 5min)
「メイIV」(2019-2023 50min)
「metadramatic」(2023 33min)
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○開催概要
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会期|2026年3月23日(月)〜 4月19日(日)
時間|12:00〜20:00
※入場は閉館の30分前まで ※3/23は17:00オープン
休館日|水・木
会場|Art Center NEW(横浜市西区みなとみらい 5-1 新高島駅地下 1 階)
入場料|一般2,000円、大学生1,500円、高校生以下無料、障がい者手帳提示で同伴者1名まで無料
※総勢160名を超える大木裕之への想いが綴られた特別冊子付き(一般、大学生のみ)。本冊子持参で会期中何度でも入場できます。
主催|一般社団法人Ongoing
共催|横浜市にぎわいスポーツ文化局
大協力|西村知巳、浦野むつみ(ANOMALY)、小山冴子
協力|ANOMALY、イメージフォーラム
Experimental film culture vol.7 in Japan ~ポレポレオルタナティブ~ 開催決定
Website:https://x.gd/kwYQ8
■Experimental film culture vol.7 in Japan ~ポレポレオルタナティブ~
主催:鈴木光 石川翔平 西澤諭志
チラシデザイン:松田 洋和
開催日:2026年4/29(水・祝)、5/1(金)、5/2(土)の3日間
会場:space&cafe ポレポレ坐https://pole2za.com/
協力:西村知巳、浦野むつみ(ANOMALY), 豊田市美術館, イメージフォーラム
協賛:SOLCHORD
<Experimental film culture in Japanについて>
日本のメインストリームでは決して上映されない映像作品を紹介するオルタナティブな場所として、上映団体「Experimental film culture in Japan」は、あらゆる形態の映像作品を上映する実験の場を提供します。
<今回の開催について>
今回は、映像メディアを取り巻く多様な時間や歴史の経験を、上映空間そのものへと拡張するような作品を組み込み、ジャンルを横断して思考する場を立ち上げる。
アートを軸に活動する泉太郎は近年、「不可知についてのプロセス」を構想してきた。今回はポレポレ坐に根付いた「自然」を検証して参照しながら、「禁足地とモビリティ・ガバナンス、インフラと誘拐、神話の太陽と太陽を指す指、スキップと贖罪、減退する改良住宅群と拡張する古代の遺構など、生々しくかたちを変える対象と対象の間で壁当てを繰り返し、プロセスを再内臓化して育てる不自然」と話す「上映作品」を発表する。拒絶と受容の距離を超えて、立場を見失わせるような「映像を巡る時間」を展開する。
写真家の黒田菜月による映像作品では、介護従事者や動物園飼育員らが培ってきた観察の経験を媒介とすることで、撮影者の特権的視点からこぼれ落ちてしまう「鑑賞」という不確かで多様な経験そのものを映像として立ち上げる。
エッセイフィルムとドキュメンタリーの領域では、EFCJ vol.6にも参加した玄宇民の初期から近作までを、二部構成で包括的に上映する。本作品群では、在日韓国・朝鮮人というテーマを軸に映像作品で語ろうとする、その「語り」の様々な試みの軌跡を紹介する。また、『二十歳の息子』(2022年)で知られる島田隆一は、一見オーソドックスな形式を取りつつ、被写体の選択や語りの構成に独自の実験性を示す。そしてEFCJメンバーからは、石川多摩川がラフカットとして発表してきた2023年から2024年の夏までの記録による偏月日記映画『目の奥に』(2025年)の完成版を、鈴木光がベルリン在住時に日本に一時帰国した際に制作した『Garden』(2016年)とともに上映する。
オレクシー・ラディンスキーは、ウクライナのチョルノービリ原子力発電所で働く作業員が2022年2月から3月にかけて記録した映像を再構成した『Special Operation』(ベルリン映画祭2025上映)において、放射能汚染地域におけるロシアの戦争犯罪を、防犯カメラ映像を証言として検証する。デニズ・シムシェクの『detours while speaking of monsters』(2024年)は、トルコのヴァン湖周辺に暮らすアルメニア人とクルド人の神話と政治の領域に個人の意思を再配置する実験を通して、三者が交差する地点で何が抹消されてきたのかを浮かび上がらせる。
劇映画の分野でも活動する大内伸悟の多摩美術大学卒業制作『人はいない』(2002年)は、16mmフィルムで撮影されたひと夏のすれ違いを描く。登場人物は後ろ姿や濃い影によって不明瞭に示され、やがて人物不在の風景が前景化し、そこに映る建物や土地の歴史も呼び起こされていく。
そして、2025年に逝去したアーティスト/映像作家の大木裕之が1989年から35年以上にわたり制作を続けてきたライフワーク『松前君の映画』シリーズから、最初期の作品と最晩年の作品を同時上映する。
<チケット価格>
1回券:1,500円
3回券:3,900円
5回券:5,500円
フリーパス:7,000円(リーフレット付き)
※各回定員制 ※予約者優先 ※3回券、5回券、フリーパス購入の方も事前予約をお勧めします。
チケットの予約は、プログラム名、お名前、人数、電話番号を明記の上、info@efcjp.infoまでメールしてください。 フリーパスや回数券を購入希望の方はその旨もメールに明記してください。チケットの精算は当日、現金のみで承ります。
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<タイムテーブル>
▼4/29(水・祝)
13:30 A. 泉太郎 新作『放散虫のトーテム/プロミネンス』 (180min)
16:30 B. 黑田菜月 作品特集「観察の協働——媒介としての写真家」 (95min)+トーク
19:00 C. 大内伸悟『人はいない』 (72min)+トーク予定
▼5/1(金)
14:00 D.デニズ・シムシェク『detours while speaking of monsters』(18min/トルコ)+オレクシー・ラディンスキー『Special Operation』(65min/ウクライナ) ※英語字幕のみ
15:30 E-1. 大木裕之『松前君とトヨタ君の映画』最新mix (60min)
17:00 F-1. 玄宇民 特集第1部 (98min)
19:30 F-2. 玄宇民 特集第2部 (96min)+トーク(ゲスト:中本憲利)
▼5/2(土)
12:00 G. 石川多摩川『目の奥に』(54min)+鈴木光『Garden』(16min)+トーク
14:00 H. 島田隆一『二十歳の息子』(86min)+トーク
16:30 E-2. 大木裕之『松前君の映画』(180min)
20:00 D. デニズ・シムシェク『detours while speaking of monsters』(18min/トルコ)+オレクシー・ラディンスキー『Special Operation』(65min/ウクライナ) ※英語字幕のみ
FBにも書いたものを転機します。よろしくお願いします。
大木裕之さんが亡くなられたことを追悼して、大木さんが生まれた誕生月の3月の期間だけオンライン上映があります。またこのタイミングは、15年前東日本大震災が起きた月でもあります。本作は、映像作家の前田真二郎さんが企画したムービープロジェクト『BETWEEN YESTERDAY AND PROJECT』でそこに参加した大木裕之さん・池田泰教さん・崟利子さん・そして鈴木のオムニバスムービーです。これは、2021年に山形国際ドキュメンタリー映画祭の日本プログラムで上映されたものになります。期間限定の祈りのプロジェクトとしてこの機会に是非見てみてください。よろしくおねがいします。
2026年2月17日(火) に鈴木光さんの博士学位論文最終試験が行われます。
どなたでも聴講可能な一般公開の審査会になります。ご興味のある方はご参加ください。大木裕之さんの映画を今日は、kudanハウスで見てきた。
以下、3本。
《松前くんの兄弟の神殿の形1》は、以前見ているしDVDも購入したので今回は見ていない
初っぱな、松前君の旋律IIでまさか、泣いてしまった。
大木さんが使う曲とあの昔のアイドルの曲みたいなのが、それこそノスタルジーを呼び起こしすぎて、頭で考えるだけじゃない、感覚的と全身を使ったその感じる、というものが出ちゃっていて、美しすぎた
実は、3月の後半に Art Center Newの大木裕之追悼展示があるというので、大勢で作品を展示するというので、私も参加予定です!というので今日は本当に久しぶりに個人的にカメラをまわしてみた
家族の死を見たら、今日はそれ関連をまさに撮ったので、そこの間の表現での作品になりそう、
12:30-[Kプログラム]大木裕之 – 松前君のヴァリアシオン(約61分)
大木裕之《松前君の旋律 II》2004/2014, ビデオ, カラー, サウンド, 22:01
大木裕之《松前君のまんじまんじゅのための映画 (150226 MIX)》2014-2015, ビデオ, カラー, サウンド, 4:00
大木裕之《松前君の赤い (パブリックパンツ) 映画 (20160703 大分mix)》1998-2012/2016, ビデオ, カラー, サウンド, 34:00
14:30-[Lプログラム]大木裕之−家族の死(約71分)
大木裕之《レフトライトデザイア》2004-2016, ビデオ, カラー, サウンド, 40:00
大木裕之《木三 (ムミ)》2024, ビデオ, カラー, サウンド, 30:00
16:00-[Mプログラム]大木裕之―M・IとMAY(約65分)
大木裕之《M・I 2023》2000-2024, ビデオ, カラー, サウンド, 30:00
大木裕之《メイⅣ 2019-2024》2019-2024, ビデオ, カラー, サウンド, 34:57
ローザ・フォン・プラウンハイムがすごい
横目で、昨日届いた「つぎの民話」松井至さんの著作を見る、
この本、すごいのは、映像視聴のurlがついていて、エッセイごとにパスワードが載っていること
私的には、他者を撮り始めるとどんどん撮れてしまって、美しさを追いながら、いろいろと外に手を出さざるをえなくなり、扱いが並列し勢揃いしていくようであり、それが人間として良いのか、という問いに付されてしまいそうなので、やりたくない。
自分だけの一回性みたいなものが薄れてきてしまうので、あまりやりたいことではない
しかし、メディア制作者であることを自負した瞬間に、その他者性を勢揃いさせて美しく撮ることが正しいこととなる、しかしところでそれは置いておいて、確かに松井さんの作品には美しさが宿っている。
美術は、その意味では、頑なに正直でありもっと曲がった存在であるように思う。
ジガヴェルトフが博論の軸の一つなので、ジガヴェルトフ集団の映画を全部見た。10本。「ありきたりの映画」だけ、途中脱落してしまった。ここまで見て思うのは、博論とは別な話だが、やはり、1960年の「勝手にしやがれ」からヴェルトフ集団までの全速力と、2回目の全盛期である1979年の商業映画復帰作「勝手に逃げろ人生」以降を、しっかり見た方が良さそうだ、と気づき、それが、以下15本は、やはり見ておかないと、とおもいなおし、この春休みの課題となる。(ちなみに以下7本は、勝手にしやがれ、気狂いピエロ、中国女、ヒア&ゼア、自画像JLG、映画史、ゴダール・ソシアリスム、は過去に見ていた)(合計17本、まだ先は長い・・・)
カラビニエ (1963年)
軽蔑 (1963年)
はなればなれに (1964年)
恋人のいる時間 (1964年)
アルファヴィル (1965年)
男性・女性 Masculin féminin (1966年)
メイド・イン・USA Made in USA (1966年)
彼女について私が知っている二、三の事柄 Deux ou trois choses que je sais d'elle (1967年)
勝手に逃げろ/人生 Sauve Qui Peut (la vie) (1980年)
パッション Passion (1982年)
カルメンという名の女 Prénom Carmen (1983年)
ゴダールのマリア Je vous salue, Marie (1985年)
ゴダールの探偵 Détective (1985年)
フォーエヴァー・モーツアルト For Ever Mozart (1996年)
愛の世紀 Éloge de l'amour(2001年)
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ジガヴェルトフ集団:
1967年「ウィークエンド」
おしゃれで優雅なブルジョア夫婦の週末、異常な事件の数々が巻き起こる。最後は、突然ベトナムの解放戦線を模したゲリラ集団に誘拐され、これまで制作した素敵なゴダール映画の終焉を予告する感じ。悲劇的なコメディ。
1967年に休止している?同年8月、商業映画との決別宣言文を発表。
1968年ジガヴェルトフ集団結成。
1968年「ありきたりの映画」
同年にゴダールがジャン=ピエール・ゴランと結成した「ジガ・ヴェルトフ集団」名義の第1回作品とした。学生が労働者との共闘について真剣に話し合う言葉に、労働者のストのフッテージが重なる。
学生の後ろ姿が中心に議論とストのアーカイブのフッテージが重なる。5月革命時?
途中で脱落。
1968年商業映画との決別宣言文を発表後、10月に撮影を開始。
「たのしい知識」
テレビで放映されるはずだった映画。
その時代の学生闘争や政府への目線などが闘争というキーワードを元に描かれる。
二人の男女が中心に会話とコラージュの組み合わせ。ゴダールには珍しいポップな広告などが出てくる。
個人的にはこのコラージュかんが好き。
1969年3月「ブリティッシュサウンズ」
1969年3月「プラウダ」
1969年6月「東風」
1969年12月「イタリアにおける闘争」
1971年「ウラジミールとローザ」
革命喜劇。ジガヴェルトフ集団の最後の映画。
革命を思考する被告たち。ブルジョアジーと労働者の話を、事件の模擬裁判を使って被告や囚人という視点で描く。
1972年4月に劇映画に復帰し「万事快調」を制作、その公開で批判され、その1ヶ月後に、ジガヴェルトフ集団は解散。
1972年「万事快調」
非常に厳密にカメラワークが決められた映画。縦移動は無しで、横移動と固定のみで撮影された、過去の映画のような労働者階級対資本家の映画。
1960年代に勝手にしやがれから、1960年代のゴダールの個性が駆け抜け、15本を撮り、そこから脱却し、新しい映画を目指して、過去のスタッフを捨て、ジガヴェルトフ集団で映画制作を行っていたが、その終焉を予告するような、批評家からの厳しい批判。過去の映画のようだ、ゴダールの個性はどこへいった?
その後、一人での映画制作へ入ることになる。
1972年「ジェーンへの手紙」
昨日、裁判所に行きました
東電に対する低線量被曝についての訴訟といっていいでしょう
母子のみの避難を決断した女性の訴え
前回は、すごい並んでまさか抽選に当たってしまった、もう忘れてしまったがある事件を見た
のと、覚醒剤を購入した男性の裁判を傍聴した
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アレキサンダー・クルーゲの「昨日からの別れ」の最初は、裁判所のシーンから始まる
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酒井直樹の言葉は、言語化しずらい西洋と日本の不均衡を
特殊性と普遍性という言葉を使って巧みに説明している。
そして、あるとんでもない共犯関係に気づかせてくれる。
これを利用している、西洋やUSにいる日本人がいることも、ドイツにいた時になんとなく肌で感じていたが、その解決方法というか言語化の方法が見つからなかった、が、この言葉はすごい効力を持っている。
以下、
第一章:
こうした種々の言説の配置が統合されて、日本という特権的言説対象が構成される。ここで、日本は特定の統合された特殊性として普遍的なことばで定義されることになる。つまり、日本のユニークさと同一性は、西洋という普遍的場に突出した特殊な対象というかぎりでのみ与えられるのであり、西洋の普遍主義に統合されるかぎりで、日本はひとつの特殊性としての自己の同一性を獲得するのである。別のことばでいえば、日本は西洋によって認知されたときにはじめて自己を与えられ、自己の同一性に目覚めるのだ。日本人論が日本が西洋と違っている無数の例を挙げ、西洋との差異によって日本の同一性を定義しようとするのはけっして偶然なのではない。日本が西洋とどんなに違っているかに固執するのも、実は他者の視座から自己をみたいという抑え切れない衝動から来るのだ。もちろん、これは西洋の視座によって日本の同一性を定立することであり、そうすることによって普遍的対照項としての西洋の中心性を確立することなのである。 だからこそ、日本の排外主義と自民族中心性を批判するようにみえながら、ポラックは実際には日本人論のなかにみえみえの日本の排外主義と人種主義を熱心に受け容れるし、承認しさえするのである。実際のところ、彼の議論の全体がこの気前のいい特殊主義の承認がないと維持できないのである。そして、ここに露呈した言説形態は、個人の意図や悪意によって起こるのではなく、言説形態として現在日本について研究しようとする者にとって逃れ出ることのできない歴史的重みとしてのしかかってくるのだ。ポラックに欠けていたのは、その意味で、ひとは歴史のなかに生きているという自覚、つまり基本的な歴史意識だったのである。 双方があたかも一見敵対的なかたちで主張してきたのとは反対に、普遍主義と特殊主義はたがいを強化し補足しあうのである。両者が真に敵対関係にあったことなど一度もないのであり、ともにたがいを必要とし、両者の間に対称的な相互に支え合う関係を求めているのであり、そうすることによって安全で調和的な独話論的monologic世界を危険にさらすような対話論的dialogicな出会いを避けようとしてきたのである。だから、普遍主義も特殊主義も、自分の欠陥を黙認してもらうことと引替えに相手の欠陥を受け容れてしまい、その共犯性という点で両者は親密に結びつけられているのである。 この点で、国家・国民主義nationalismなどの特殊主義はけっして普遍主義の批判などにはならないし、またその逆も起こりえないのだ。なぜなら、両者は共犯者だからである。
酒井直樹. 死産される日本語・日本人 「日本」の歴史―地政的配置 (講談社学術文庫)