2019年11月26日火曜日

ザラザラ

左の薬指に指輪
英字新聞
スーツ
男性

2019年11月24日日曜日

Deborah StratmanのVeverの批評の翻訳してみました



“I have come to believe that if history were recorded by the vanquished, rather than by the victors, it would illuminate the real, rather than the theoretical, means of power.”

山形国際ドキュメンタリー映画祭の審査員作品で上映されていた作品「Vever」の批評があって、大変面白く、それをより自分で解釈したく、翻訳してみました。この三世代のフェミニズムの結合と西洋の植民地主義、実験映画 andドキュメンタリーが混ざる映画、なんて特異な作品なんだろうか!!

デボラストラートマンは、過去の視点を刺激的な音、テキスト、マヤデレンの教えと共にバーバラハマーの終わっていない映像フッテージの編集をすることで、現在へ再びそのフッテージを蘇らせた。Veverは、詩的に、全然違う女性映画作家の三人の世代の間の関係を描く。それが今この瞬間に結合すること、これまで見たこともないチャレンジ、映像制作実践の再解釈。
間の点と点
マヤデレンが1953年に書いた、聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々「今日、1951年9月、この本の最後の数ページを書いているように、クロゼットの中の耐久性があるボックスの中の実質上のオリジナルの状態で、撮影されたフッテージ:その記録は、すでに、オリジナルのワイアー巻にある:写真の山が、”プリントされること”とラベルされた引き出しの中に押し込まれている。編集された映画の複雑なデザインが、私のファイルの中のどこかにある。私が思うに、全然どこだか定かではない。それは全然重要なことではない。新しいプランが必要だ・・・」
2018年の前半に、アートィストでありフィルムメーカーのバーバラ・ハマーは、デボラストラートマンにある話を持ちかけた:ハマーが1975年にグアテマラにモーターバイクで旅行する間に撮った完成していない映像フッテージから新しい作品を作ることができるか?この数年間ハマーは、Werner Center for the ArtsのキュレーターのJennifer Langeの援助で、世界で決して共有していなかった彼女の映像ボックスを発展させる計画をしていた。「このプロジェクトは、バーバラとの会話で始まった。私は、この数年間、何かを意図して作ろうとして撮っていた、何かの目的でどんな特別なアイデアもなしでただ撮られた素材を含んでいるテープのボックスを持っていた。数年経ってもそのフッテージを見さえしなかった。」当初は、その計画は、ハマーがそのwexnerのレジデンスプログラムに参加することだった、そして、彼女自身がその素材を再び見ること。しかし、ハマーの計画は、健康状態がすぐれなくなった時にその方向性を変えた。ある時、その機会が一瞬にして訪れた。他の映像作家にその素材で作品を作ることを頼むことで、そのプロジェクトを再び始めること、それを必要とすること。
ストラートマンは、挑戦と栄誉を背景に、その映像を見た時、素材を見る以前にハマーの長いキャリアと彼女の作品のインパクト、他のムービングイメージアーティストの中での、歴史的重要性から、確信し、賛同した。
ハマーにとって、ストラートマンを選ぶことは、彼女自身の大胆な精神を正確に映し出していた。それらのシェアした大胆なキャラクタ - 抵抗の一体化、地球を旅すること、好奇心を持つこと、疑問を持つこと - お互いの実践に親近感を提案すること。しかし、多分それらは、映像制作者としての衝撃を共有する時、この主題と中身は、当たり前のように全く違うことになった。
というのは、ハマーは、1970年代始めからフェミニスト理論やレズビアンの性とコミュニティーの周辺の対話を創造するといったクエアフェミニストアーティストとしてよく知られている。
ストラートマンの場合、知識の欲望が、彼女の作品のほとんどすべてにとって触媒となっている。そこに、好奇心や無知への抵抗が、アートに一体化する。「私は物事と知り合うためのある方法を作っている」とストラートマンは述べている。ハマーとのプロジェクトには、違いはない:影響のある人物の作品に向かい合って今まで決して見られることがなかったフッテージをアクティブにすることはユニークな機会を提供する。ストラートマンの始めのスタンドポイントは、物語を語るのを単純化することではなく、感情を作ることの衝撃だった。直感的な反応は、社会的で感情的な共鳴を持っている。このことを考慮して、Charles Bowdenの言葉を使って、著者のストラートマンはしばしば言及する。特に呼び覚まされること:「説明されるものは否定され、しかし感じられるものは、忘れさられることができない」現実と歴史への責任で、ストラートマンの映像制作は、しばしば細部にそして調査と探求の熱心な過程に根ざしている。しかし、詩的な厳しさと形式的な実験で、彼女は、予想できない領域に足を踏み入れる、架空の質と実話の物語をシェアすること。

デボラストラートマン
2012年のthe Brooklyn Railのインタビューで、彼女は、量と圧力の観点からもっと作品について考えていると言っていた。「私にとって、映像は、文字どおり、いくつかの彫刻的な形です、それに側面を持つ一時的な彫刻です。」因果関係を示す直線„Cを起こすBを起こすA“について以上に、プレッシャーを緩和することを積み上げることについて考えている。この直線的なアプローチは、ストラートマンに、多角的な軌道を彼女の映像の中に含むことを許す。同時に、オルタナティブな過程を探す事で、アイデアと物語に従って動く事、それらが折り返すこと、彼女はしばしば、共有している意図よりむしろそれらが近接しているため、新しい意味を作るために、互いに違うコンセプトを置く。神話の交差点で接続と作動を引き出すストラートマンのプロセス、歴史、物語は、Walker art centerのコミッションワークの作品「Vever」で特に明らかになった。それは、ハマーのリクエストによって、Walker art centerのムービングイメージコミッションと一緒に編み上げられている。このプログラムでは、Ruben/Bentsonムービンイメージコレクションの中のアーティストに、新しい作品の創造に資金提供をしている。数週間以内に彼女に持ちかけられた、おそらく偶然見つけられた、それか、運命なのか、彼女はすぐにwalker collectionのマヤデレンとハマー(過去2010年に直接ショートビデオ「Maya Deren’s Sink」の中でデレンに言及していた)の名前の題名の間に並行して見つけた。
しかしながら、デレンの作品の体型を徹底的に調べた上で、ストラートマンは、彼女が記録した1953年の本「Divine Horsemen: The Living Gods of Haiti(聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々)」の中で、ハイチの神とブーデゥー教の儀式の彼女の経験についての個人的な説明とデレンの旅に惹かれた。デレンの著作集の中にあった、「Vevers」のイラストレーションと同様に、- 精霊(Loa)や神を呼び覚ます象徴的なデザイン - ストラートマンは、より深く女性の関係を発掘した本をいたるところで見つけた:土着的な文化を発見する映画プロジェクトを捨て去るそれらの似た選択です。ハマーを思い出す。「私は、どんな詩的な内容や、映画への個人的な内容も見つけることができなかった。だから、それをプリントする理由も見つけることができなかった。」
デレンは、さらに遠くへ行く、そして入植者のレンズの凝視を批判する。:
私は、もし歴史が、征服者によってよりむしろ、打ち負かされた人によって、記録されたなら、それは、理論的に権力の意味よりむしろ、「事実」を明らかにすることを信じる。根本的に、アーティストとしてそれら自身に目を向け、アメリカ人の映像作家として自己文化中心主義のリスクを認めた。数十年後、デレンのハイチの説明を読むことと、新しいコミッションの中でハマーの映画の素材を見ることで、人は、アーティストの間のこの重要な世代的な距離を認識する間にこの立ち位置をよく考えなければならない。それは、歴史の中でとても重要な政治的で社会的な瞬間だ。それは、疑いなく、彼らの個人的な実践に影響する。
40年代, 50年代のデレンは、アメリカの繁栄と世界的な優勢の時間の間のみならず、平等な権利の獲得 - 過酷な性的な一致の強要や鎮圧の時間の間、活動していた。しかしながら、伝統的な女性の役割の挑戦 - 原始的なフェミニズムの上昇は、デレンの実践の中に反映されている、その時、彼女は、男性優位のアヴァンギャルドシネマの領域でわずかな女性作家の中の一人だった。多分それは、事実が曲げて伝えられ、過小評価された女性を通してだった。デレンは、映画の中の一部のハイチの儀式のダンス、その意図的なフッテージの中で征服者や外国権力と対比した時の彼女の立場に敏感に疑いを持った。彼女は、その映画を捨て去ることを決定することと非征服者の真の代表者を支持する代わりに、占有された彼女の経験からそしてハイチのヴードゥー教の儀式の中に関係していく個人的な説明を通してそれをすること。「Divine Horsemen(聖なる騎士たち)」の著者の前置きで、デレンは、彼女が引っ張り出してきたプロジェクトの中で新しい意図を認識する。「私は、自分の創造的な品位のイメージの中で人々がアート作品の中に現実の要素を操作するように、アーティストとして始めた;私はできるだけ謙遜して正確に記録することによって、その品位を認識すること私の操作を諦めることを強要した現実の論理を終わらせる」デレンの視点は、映像フッテージそれ自身よりむしろ言語やシンボルを通してコミッションワーク”Vever”の中に編まれる。それは、疑わしい歪みの中にあり、彼女の死の後に、彼女のパートナーの伊藤ていじによって1985年のドキュメンタリー「Divine Horsemen: The Living Gods of Haiti(聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々)」の中で編集され、発表された。

ハマーの素材は、ほとんどがマヤに土着的な人々や田舎の貧乏な政府の権力に戦う人々によって援助された左翼のグループが起こした市民戦争中にグアテマラの田舎で1975年に撮られた。ハマーは、ラテンアメリカ中の主要な政治的な反乱の時間だけではなく、アメリカの不安定な政治的なムーブメントの間、市民権からハマーが一番近いと見ていたフェミニズムの第二波の間に旅をしていた。ハマーのフッテージが公然と政治的な意図を提案しない間に、重い政治的な雰囲気のニュアンスが消失している伝統的な土着的なマーケット文化 - それは、地元の人々, 食べ物, 織物や風景のシーンとペプシコーラのような重要なグッズのイメージで並列されている - の映像を撮ることの選択の中に反映されている。
ストラートマンは、述べる「西洋マーケットがどう土着のマーケットを奪ってしまったのか、そしてその文化を変えてしまったんでしょうか。」
しかし、決定的に、カメラの後ろのハマーの存在はパワフルで政治的なジェスチャーだ。旅行し土着的な人々と接することのこの極めて重要な決定は、彼らのグループの中に座っている先住民の女性によって手渡されたボール一杯のスープを撮った映像の中に手を伸ばすハマーの手が「Vever」の初めてのシーンの中で明白に見られる。数少ない瞬間の一つに、実際12分の作品のいたるところで、私たちはハマーの存在を見る、この活動的な関与、彼女が発見する風景の中にクエアアメリカ人女性の政治的な体を挿入される。この一瞬、ハマーの性格がマーケットの中の女性の注視の中「Vever」に充満し、知らせる。彼女のカメラは、直接的に関与し、時々クローズアップし、彼らの美しさを捕らえ、個性やシャイな笑顔を通した反応、笑い、ポーズ;他の対照的な瞬間がある、幾人かは彼らの手を持ち上げて敵意の様相を見せ、カメラの方を指し、完全に素早くよける。ハマーはどちらも、つまり望まれていない存在も歓迎しているらしい、その外国の凝視と西洋のカメラは注目を浴びる、関与の一瞬を修正し、結果として、映像の中にハマーの存在を中心に置く。この解釈は、フィルムメーカーの視点に対照をなす:ハマーはどんな人々の背景も見ることができなかったと述べる。しかし、多分47年後にそのフッテージを見ることになり、ストラートマンの外側の凝視を通して、ハマーの重要な個人的で政治的な見解に光をあてる。ハマーからのストラートマンのモンタージュイメージ、デレンからの音と言葉、は彼女自身の個人的、政治的な立場の除去を提案する。しかし、それはストラートマンがこの作品の中に挿入するまさにこの距離であり、ハマーの存在にアクセスする新しい見晴らしの良い点を開く。90年代からのフィルムメーカーとして彼女が活動し始めたことで、それは、第3波のフェミニズムの視点からストラートマンの立ち位置を考えることになり、それは、素材や、コミュニケーション、過去のフェミニストの強い願望の視点の再調査と再び文脈付けすることを促すことによって多様性を進展させるために過去のフェミニズムの見解を批評する。同時に、特にこの仕事の例の中で、改革や変化、過小評価され不正確で見捨てられた人の改善された生活を支持する声の次世代への道を舗装した先行した女性世代への理解や感受性、責任の感覚に対しての要求があり、ストラートマンの距離は、ハマーの近い個人的な関与から逃げることはできず、ハマーのそれらとは違う接続を構築する批評的な観点を彼女に与える。
ハマーの素材への彼女の入り口のポイントは、多角的なアングルから、彼女の編集の選択から表現され、それは、マヤデレンの映画や著作、教えから借りた特徴を含んでいる。例えば、ハマーの「Vever」の中のフッテージは、静けさの中で撮られている間、ストラートマンはMeshes of the Afternoon (1943)のための伊藤ていじのコンポジションから採られた音を含む、スピリチュアルで不安なニュアンスを作り出している。それは、ハマーのフッテージの感情的な反響を強調し、デレンのアウラと神秘主義への結びつきを作り出す。その上、見る人の期待をかき立てるちぐはぐのカットを組み合わせることで知られる、デレンのスタイルは期待を中断させ、それは、加えて視点の方向感覚を失わせることを含むことでストラートマンの欲望を満足させる。
例えばマーケットのイメージで重ねられたVever のイラストレーションなどは、彼女に見る人がグアテマラで記録された直線のドキュメンタリーに現れる初めの様子の素材とともに予想できない方向に見る人を連れていくことを許す。ハマーのフッテージの再文脈化をする時、ストラートマンの距離は、彼女にうまく力と権威を与え、実際に映像制作に参加する時に、彼女が得たエモーショナルな接続を逃す。それはストラートマンにとって、彼女の映像は、しばしばもっと直感的な反応によって操縦されている、重要な障害だった。ここで再び彼女は、アドバイスのためにデレンの教えを召喚する、Divine Horsemen: The Living Gods of Haiti.(聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々)のveversの象徴的なデザインに関連するこの時間、デレンが本の至るところにあるイラストレーションとしてのveversを使用していた、エモーショナルな通路や交差点のそれぞれの図案、それらの目的に一致する個人的な名前と一緒に - 魔法の星形五角形, 男女両性の全体性 - ストラートマンもまた Veverの中に含まれる。
ここで見る人は、ストラートマンが多くの軌跡の幾つかと遊ぶのが好きな人物であるというところで、彼女に想像的に関わることができる。多分、彼女は、彼らのスピリットに導くことで、veverのパワーを掻き立てることによって感情的にハマーとデレンにアクセスすることを試みているのだ。ほとんどない超自然への接近の中で、多分、veverは世代を超えてコミュニケーションする三人の女性アーティストの連結点を象徴化する。
ストラートマンのveverが運ぶものは、フィルムメーカーの個人的な説明責任を守る間、品位と一緒に作品を創るためのそれぞれの女性の強い願望である。最終的にストラートマンは、過去の視点を50年代から始まるハマーの終わらない70年代のプロジェクトから、彼女自身の経験を通して、デレンの瞑想と一緒に現代のこの瞬間に蘇らせた。切り離して、そして今現在一緒に、同時に違った点から、三人の女性がフィルムメーカーとしての彼らの決定がここで生じる。そして、権力から立ち去る試みをすること、それどころか失敗に直面する意欲と脆弱性の立場を抱擁する。再解釈を広げ、世代を超えた結びつきを作り出すことで知られていない挑戦を獲得する。
欠如した誠実さのために映画プロジェクトを断念するデレンとハマーの並置と制作の失敗の認識は、ストラートマンが前方へ押し出す内部の批評と自制を可視化する。彼ら三人は本質的には権力構造の一部であることに二者択一の可能性を想像すること、そこにあるエネルギーを示すこと。再度デレンから借りるために、彼女は1953年に人の恐怖にぶつかることと権力の矛盾に直面する心情を強固にする:退散することは、臆病だろうに。私は抵抗するかもしれない;しかし私は逃げてはダメ。そして私は抵抗することにベストを尽くし、自分自身考え、もし私が恐怖と神経質さを無視するなら:もし、私の脆弱性を疑う代わりに、私は、権力が私を強制するすべてのこの恥知らずの競争の中に自分自身を置く。この決定で私は強さの復活を感じる、自身の確実性の、そして私の適切なアイデンティティー。



何ていうか

さて、大木さんインタビューを終えて、一人大倉山の知らない居酒屋で深夜から飲むに至ったわけですが、

さてさて

トークでは、大木さんのお話の中で、とても大きな映画のプロダクションワークという話があり、そこから、自作へと

作品のパートの散りばめらられ方という、juxtaposing という編集、
を見て、
ユダヤ教という一神教、そして実際のそのユダヤ教そのものの神は一体そもそも誰なのか、ヤーウェ?ヤハウェ?だろうか、

編集の自体という行為、概念自体が哲学的すぎる話題であり、

など

ところで、実は大木さんがそれこそ神がかり的に作ってしまう、その映像体系、そしてその美学shönheit und esthetikに関しては、どうしても触れること/いや言葉にできることではなく、そこで、その「心の中」という表題/タイトル作品を拝見することができ、それは、いわゆる「映画」神/人と話をすることとは別途で、間会えざるおえない状況/河瀬直美

なんてことが起きてきて、
文節ではなく、そして帰結せず、

で最終章なんてものはなく、
それこそ、
そのjuxtaposingしながら、pararelに映像そのものへと対置していくわけなんだですが、

そこで物足りないなくなってしまった創造性

というところで、ストップしておこうなんて思ったりして、

自分も自己表現したいな、


という欲求が急速に湧き始めて
寝ることに至る











2019年11月22日金曜日

明日、11月23日大木さんトーク

、。いや、大木さん作品の以前から興味を持っていたわけですが、作家にこういう形で向き合えるのは、とてもいい機会であり、一体何を聞き出せるか、インタビューアーとして、たくさん興味があります。個人的にはいろいろ忘れかけている、人間の感じる、みたいなところを使って聞きたいです、感じることは、目に見えないし、色とか、痛みとか何かの言葉を使って表現されるかもしれないけれど、とても一方通行的なものであり、それが弱まった状態で作品に向き合うことはできず、素通りしてしまいます

2019年11月14日木曜日

2019年11月9日土曜日

そういえば、

そういえば、日本でexperimentar filmを専門的に勉強というか、教えているところ/クラスって、ないな、なんてのをふと思った。
どうしても、一般的な映像/映画の話に立ち戻りながらしか、映像を語ることができない?
いや、あるが、自分は出会ってないということか、
これは、メディアアートではないし、映画にすごく近いけれど、ムービングイメージと言えるのか?
その意味では、イメージフォーラムがそれなんだろうな
これがexperimental という定義もないと思うけれど、
ただそこを思考していく、というのはある