酒井直樹の言葉は、言語化しずらい西洋と日本の不均衡を
特殊性と普遍性という言葉を使って巧みに説明している。
そして、あるとんでもない共犯関係に気づかせてくれる。
これを利用している、西洋やUSにいる日本人がいることも、ドイツにいた時になんとなく肌で感じていたが、その解決方法というか言語化の方法が見つからなかった、が、この言葉はすごい効力を持っている。
以下、
第一章:
こうした種々の言説の配置が統合されて、日本という特権的言説対象が構成される。ここで、日本は特定の統合された特殊性として普遍的なことばで定義されることになる。つまり、日本のユニークさと同一性は、西洋という普遍的場に突出した特殊な対象というかぎりでのみ与えられるのであり、西洋の普遍主義に統合されるかぎりで、日本はひとつの特殊性としての自己の同一性を獲得するのである。別のことばでいえば、日本は西洋によって認知されたときにはじめて自己を与えられ、自己の同一性に目覚めるのだ。日本人論が日本が西洋と違っている無数の例を挙げ、西洋との差異によって日本の同一性を定義しようとするのはけっして偶然なのではない。日本が西洋とどんなに違っているかに固執するのも、実は他者の視座から自己をみたいという抑え切れない衝動から来るのだ。もちろん、これは西洋の視座によって日本の同一性を定立することであり、そうすることによって普遍的対照項としての西洋の中心性を確立することなのである。 だからこそ、日本の排外主義と自民族中心性を批判するようにみえながら、ポラックは実際には日本人論のなかにみえみえの日本の排外主義と人種主義を熱心に受け容れるし、承認しさえするのである。実際のところ、彼の議論の全体がこの気前のいい特殊主義の承認がないと維持できないのである。そして、ここに露呈した言説形態は、個人の意図や悪意によって起こるのではなく、言説形態として現在日本について研究しようとする者にとって逃れ出ることのできない歴史的重みとしてのしかかってくるのだ。ポラックに欠けていたのは、その意味で、ひとは歴史のなかに生きているという自覚、つまり基本的な歴史意識だったのである。 双方があたかも一見敵対的なかたちで主張してきたのとは反対に、普遍主義と特殊主義はたがいを強化し補足しあうのである。両者が真に敵対関係にあったことなど一度もないのであり、ともにたがいを必要とし、両者の間に対称的な相互に支え合う関係を求めているのであり、そうすることによって安全で調和的な独話論的monologic世界を危険にさらすような対話論的dialogicな出会いを避けようとしてきたのである。だから、普遍主義も特殊主義も、自分の欠陥を黙認してもらうことと引替えに相手の欠陥を受け容れてしまい、その共犯性という点で両者は親密に結びつけられているのである。 この点で、国家・国民主義nationalismなどの特殊主義はけっして普遍主義の批判などにはならないし、またその逆も起こりえないのだ。なぜなら、両者は共犯者だからである。
酒井直樹. 死産される日本語・日本人 「日本」の歴史―地政的配置 (講談社学術文庫)
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